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| 二重虹が出たよ!と東京から。 |
2001年の4月30日で、当時、勤めていたネットイヤー社を退職。
当時のネットイヤー社は、渋谷神宮にあって、勤務最終日は御礼と挨拶に出勤した思い出。
昼には退社し、毎日通っていた宮下公園(今のように整備されておらず、山手線沿いの金網で囲まれていたごくフツーの公園)で、ベンチに座り休憩した記憶。
(あぁ、終わった・・・)という気持ちでいっぱいで、最後のあたりの仕事は覚えてない。
当時のネットイヤー社は、(たぶん)社員全員が転職者で、周りは名だたる会社からの転職者で、「広告代理店系」「シンクタンク系」「デザイン会社系」「コンサル会社系」などの“目に見えない”雰囲気があった。
そこへ、愛媛で少し働いた程度のローカル実績しかない29歳-30歳がひょこっと転職/入社できたのは、「ニューヨーク経験系」がいたから・・・と辞めた後で知る。
1年弱の在籍だったけど、当時は珍しいことではなく、隣席の人は3ヶ月、前席の人は6ヶ月で別会社に転職した。所属したグループは入れ替わりが多かったな。
アグレッシブな職場だったから、辞めること=ネガティブではなく、辞める=新たなステップと捉えられていたポジティブな会社。
給料は同世代よりよくて、勤め続けていれば今頃は・・・と思うけど、妻に「フィルム・コミッションに関わりたい」と相談すると、お金ウンヌンは一切関係なく「いいじゃない!」と、後押ししてくれたのもポジティブに辞められた要因。
あの決断から25年。愛媛県へ移住しよう!と決めて移り住んだのも25年前。
幸運やご縁、タイミングなどが重なり、愛媛県の職員になり、「えひめフィルム・コミッション」の設立に参画&担当して6年、その後は松山市の職員として観光企画、フィルム・コミッションを担当して3年、その後、NPO法人いよココロザシ大学を設立して15年。
理事長として全国組織のNPO法人ジャパン・フィルムコミッションを6年間率いて退任して今。
多くの人に面白がってもらい、色々なコトを経験させていただき大感謝。
この25年間の間、妻と子育てもして3人の我が子はそれぞれに育ち、妻は海外をまたにかける研究者に。
「どうやって生活してたの?」と時々不思議がられるけど、自分たちでも毎日、どうやって生活してきたか?分からない部分もある(笑)。
多くの人に面白がってもらい、色々なコトを経験させていただき大感謝。
この25年間の間、妻と子育てもして3人の我が子はそれぞれに育ち、妻は海外をまたにかける研究者に。
「どうやって生活してたの?」と時々不思議がられるけど、自分たちでも毎日、どうやって生活してきたか?分からない部分もある(笑)。
だけど、一つ確実に言えるのは、義父母、義兄姉らを含む家族、そして面白がってくれた方々の理解と協力があったのは事実。
歩みを止めて、違う道へ歩みだした日。

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