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2025年7月26日土曜日

内子探索備忘録。

とても素敵だった外国人女性が描いていたペン画

たまたま立ち寄った本芳我邸で、ハゼの実から採取されて作られる蝋について、全く知らなかったコトを猛省して建物内をウロウロしていたら、縁側に座っている女性がいて、その佇まいがとてもよい雰囲気。

その脇を通り抜けた時に、ふっと見たら女性はペン画を走らせていて、とても素敵だったので、「その絵の写真を撮らせていただけませんか?」と尋ねると、キョトン?とした表情だったので、(おぉ!)と思い、英語に言い直して尋ねると「Sure!(もちろん!)」と返ってきたので撮らせてもらった写真。

旅先で絵を描ける人は素晴らしい!羨ましい。

内子に旅行者を連れてきたら道の駅「からり」は外せなく、母は愛媛でしか買えない品々を購入。
母の周りにはないだろうとカラフルな「ひな豆」を紹介すると「豆、大好きなのよ!」と一袋手に取る。

で、父には「干し芋」を愛媛では「ひがしやま」と言うんです。と伝えると「なんで?」と言われも実はよく分からず、説明書きを見たら「干菓子山=山で採れた干した菓子」とのことで(そう言うコトだったのね!)と理解するも、干し芋とひがしやまは違うモノとのこと(諸説あります)。

この日の夕食は「ウェルピア伊予」でBBQ。
IYO夢みらい館のマネジャーから「ウェルピア伊予のクラフトビール」の差し入れがあり乾杯!
炭火で焼いた肉や野菜が美味しかったコト。

30年経ても、こうして付き合っていただける父と母には感謝しかなく、2泊3日の松山/内子旅は終わったのだけど、早速、お礼が届き、母の「しゃぶ辰」時代の心配りの凄さ(母はしゃぶ辰のマネジャーだった)を思い出したり。

ウェルピア伊予のクラフトビール

2025年7月25日金曜日

行き当たりバッチリ!

和蝋燭は炎が大きい!ススが出ない。

「四国カルストという山へ涼みに行きましょうか?それとも内子町という景観保存地域へ行きましょうか?」と尋ねると「普段から山(自然の中)に住んでいるから、街がいいかな?」とNYの父と母。
と、言うことで内子町八日市護国の町並みへGO!

道後から内子町まで50分ほど、八日市護国の町並みに到着。町並み探索スタート!
父も母もNYに40年ほど暮らしていたから、「これはスゴいな!」と内子の街並みに感激。
「ここの塀は長いなぁ」と言った所は内子中学校。「学校なの!?」と驚く父。

そして、内子中学校の前にあった本芳賀邸。
古い佇まいに立ち止まり、説明書きを読むと「そうか、和蝋燭などで栄えたのか!」と興味ありそうだったので500円/人で入ってみる。

すると地元のガイドさんが丁寧に案内&紹介してくれて、私も大いに知る&学ぶことできて(へぇー)となる。

ハゼの実から巨万の富を築き、100年以上経っても後世に伝えられる功績に驚くも、ハゼの実は漆と同じで「肌がかぶれる、危ない植物(死に至ることも)」だったのに、皮を剥がして実を蒸して、ゴミを取り除き、圧搾して蝋の原液を取り出そうと思ったのか?

そんな危ないコトを承知の上、命懸けで最初に見つけたハイリスク&ハイリターンに賭けた芳我家はスゴいとなる。だから莫大な富を得られたと理解した。

奥にある資料館でも蝋について知り&学び、すっかり「和蝋燭」に浸ってしまったNYの父と母。

芳我邸を出た後も和蝋燭が印象に残り、他の店などは立ち寄らず、大森和蝋燭店へ一直線!

西日本で2店しか残っていない和蝋燭店(と記憶)となった大森和蝋燭店で歴史や商品などの説明を聞いた我々。

すっかり和蝋燭の魅力を感じて、「インテリアでも素敵ですよ」という紹介に燭台と和蝋燭を購入して、思いがけず想像しなかった「行き当たりバッチリ」な探索となった件。

2025年7月24日木曜日

親孝行。

ニューヨークの父と母

ニューヨークの父と母が松山にやってきてくれた!
前回は東京でお会いできたから半年ぶりの再会。

実父母、義父母、NYの父母、アメリカの父母と、父母が多い私たち夫婦。
義父とアメリカの母は他界してしまったけど(涙)。

70代になっても元気な父と母。
今回は前回お会いした時に「もうさ、この歳になると、やることがないんだよ!」と相変わらずのNYの父節(笑)。
そんな話の延長から「松山に来てください!」となり、トントン拍子に話が進み、2泊3日の愛媛/松山旅が実現する。

会えば思い出話、今の話、そしてこれからの話に花が咲く。
人生の先輩でもある父と母の話は本当に面白。

思い出話は「しゃぶ辰(NYの父と母が経営していた日本食レストラン、私たち夫婦が出会った場所)」に来た著名人の話、当時の裏話など30年経った話題でも「えっー!」と驚いたり。

ちなみにNYの父母はキース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキアを知っている(驚)。

今の話なら、愛媛/松山や世界各地、私たちの仕事内容などに興味をもって聞いてくださるし、これからの話であれば、いつも気にかけてくださっている我が子の話、楽しみにしてくださっている私たちの将来など、「(私たちの話は)老後の楽しみだな!」とNY父。

年月が経つほどに奇跡というかご縁としか言いようのないNY父母との出会いと今。
しゃぶ辰には私たち以外にも多くの(個性的な)日本人がアルバイト(当時はできた)がいたけど、こうして定期的に会っているのは私たちだけとのこと。
しゃぶ辰で知り合い結婚した・・・が大きいと思うけど。

「俺もこの先何年、元気か分からないからさ、また会おうよ!」と、今、会っているのに、もう次を期待するNY父。父のこういう所が好き(笑)

「私たちは恵まれているね。」と、妻としみじみ。

2025年7月13日日曜日

夫婦の未来。

コーヒー飲みながら未来会議

「私が働くのも長くて10年とすると・・・」と妻。「60歳まで残り7年か・・・」と私。
若い頃は60歳なんて、遥か遠い先の話で“おじいちゃん&おばあちゃんの域”と思っていたのに、自分たちにも迫ってきていて、今回の旅でも時折、話題にしたり。

と、言うのも海外に出ると、色々あるとは思うけどイキイキしているように見える&感じてしまうのは「隣の芝は青い症候群(≒一方的な羨ましい症候群)」か?

私たちは、これからどうしたいのか?どう生きたいのか?
心理学博士であり、ポジティブ心理学の可能性を研究している彼女にとって「ウェルビーイング(≒身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを指す概念)」は永遠のテーマのようで、
ウェルビーイングな日々はどうしたら過ごせるのか?

「自分との対話」が大切なのは基本。
そして(できる or できないは関係なく)未来を描くコトも大切なようで、カフェで話しても話し足りなく、帰りの飛行機で「できるコト(Can)、やるべきコト(Must)、したいコト(Will)」の輪っかを描いて思考を整理したり。そんなコトする夫婦はいないと思う(笑)。

「CanとMustの重複=仕事」「MustとWillの重複=夢」「WillとCanの重複=趣味」「三つの輪の重複=バランスがとれた生きがい」とするならば、それは何だろう?と。

これは不変ではなく、年齢や経験値によって変わる。
一先ず!私の場合は「フィルム・コミッション」と「ココ大」で、グラグラしながらもバランスが保たれていると思う。

でも、このバランスは自分一人だけの力ではなく、仕事相手や社会&経済状況、家族環境によって大きく左右される。
ほんと、一年先が不透明なまま毎年を繰り返して、振り返って安堵・・・という感じ。安定性が全くない。

妻も行く先を色々と考えていて、お互いに踏み込んだ話ができたのは海外という機会だったからかも。

こんな心情を「ミッドライフクライシス(中年の危機)」と言うのかもしれないけど、一つ明確にわかったのは「地域づくりも夫婦関係も積極的に関わらないといけない」ということ。

2025年4月27日日曜日

三人揃って255歳以上。


過ぎてしまったけど、父(85歳)の誕生日ケーキを妻と娘が用意してくれていた。
思い起こせばNY時代に「(病気に)危ないかもしれないから覚悟はしておいて!」と、当時の国際電話で知り、アタフタしたけど、あれから30年以上が経っても元気でいてくれて感謝。

元気過ぎて「最近はミステリーツアーに行ったんだ!」「ミステリーツアーって、行く先が分からない旅のこと?」「そう、バスツアーなんだ。」と、父の兄、父の妹の旦那(私から見ると叔父たち。全員85歳以上。)という三人揃って255歳以上の爺さん3人組で旅を楽しんでるから元気でなにより。

そんな姿を見ていると、私たちの30年後も80代に突入。
日本人の平均寿命は84歳(男性81歳、女性87歳)とのことで、90歳まで生きる確率は男性が25%(4人に1人)、女性は50%(2人に1人)と、長寿国日本!

個人的には、そこまで長生きするとは思えないけど、医療技術などの発展で「老人Z」のような世界もフィクションっぽく聞こえなくなってきた。

ただ、長生きするというのは、それだけ「お金」も必要なわけで、父の世代は年金などもしっかりしているけど、我々世代は安心して老後を過ごせない・・・など心配が尽きない世代。

どう考えても、今の一般的な80代と我々が達する80代では同じ80代でも質(生活様式など)が異なるのは目に見えていて、どうなっているのだろうか?

80代でも自分の生きがいなどの意欲で働いているのか?それとも働かなくてはならない状況に陥っているのか?
深く考えてもしょうがないから、今日を充実させようと思った件。

2025年4月7日月曜日

25歳。


長男くんが気分転換に松山へ。
義兄姉宅にお世話になっていて、食事に誘っていただいたら長男くんの誕生日まで祝ってくれた(涙)。

長男くんは25歳になった。
済美高校の2年生時に自主退学し、シアトルのカレッジで学び、その後はフィレンツェで絵の勉強をして卒業。昨年帰国して画家になる!と奮闘中。

私が25歳の時は、松山で働き始めた頃。
前年の24歳で結婚したばかりで、仕事も結婚生活もおぼつかなかった頃。

その後、1998年に長女が誕生し、2000年に長男くんが誕生。あっという間に25年が経っていた。その後、2004年には次男くんが誕生。

親がこんな感じだから、枠や既成にとらわれず、自分が進みたい道を歩んできた我が子達。
長男くんは小さい頃から絵を描くのが好きで、キース・ヘリングの絵を模写したり、スターウォーズのキャラを描いたり。

スポーツも好きで得意だったから、将来はどんな道に進むのかな?と思っていたら、スポーツではなくアートの道でした。

25歳だからと言って、すぐに将来を決める必要がないのは私自身の経験から。
その後、2000年にネットイヤーに転職したものの、フィルム・コミッションの存在を知り、2001年に愛媛県に移住して2002年に「えひめフィルム・コミッション」の設立に参画、愛媛県観光課に就職した時は30歳だった。

画家になりたいと言っても一筋縄ではいかないのは彼も承知で、紆余曲折しながらの道になるはず。
本人が楽しめるなら、親としてはそれ以上望むことはなく、なんなら楽しさに便乗させてもらおうかなと(笑)。
人生は楽しんだ者勝ち!

2025年3月19日水曜日

そんな彼の誕生日。

第1回早慶戦の両校選手(1903年11月21日)赤丸が泉谷祐勝さん

「この前さ、渋谷で
テレビ局の取材を受けたんだよね。そしたら相手がお父さんの連絡先を教えて欲しいって言うから伝えたよ。」
と、いう不思議な連絡をくれた末っ子くん。
「OK!」と私。

その後、「こんにちは。〇〇〇テレビの〇〇〇(番組名)、ディレクターの〇〇〇です。先日、息子さんにインタビューさせていただいたのですが、息子さんの高祖父である泉谷祐勝さんは日本の野球史上、初めてバントをした選手と聞きましたが・・・。」

「あっ、その話ですか?本(天皇の野球チーム)に書いてありますね。私もその本に書かれている程度のことしか分かりません。」
「はい、調べてみるとそうでした。では、本当だったんですね。」
「そうなんでしょうね。」
「ちなみに、第一回の早慶戦にも選手で出場されてますよね?慶應大学に挑戦状を出されたとか?」
泉谷祐勝さんなんですかね?そうなんですかね。」
「裕仁親王(後の昭和天皇)からの依頼で宮内省野球班を創設して監督兼選手だったとも書いてありました。」
「そのようですね。」

だんだん、私でも分からない質問になり「ゴメンなさい。私の父に聞いてみます。」と切る。

そして父に電話。
泉谷祐勝さんだけど、〇〇〇で〇〇〇だったの?」など、色々尋ねると初めて知ることも多く、へっーとなり、色々と情報をもらい、番組ディレクターに伝える。

そんなやりとりから、家族について知る機会を作ってくれた末っ子くんの誕生日は今日。
放送されるかは不明だけど、立場上、取材されるのは珍しいという話。

2025年2月2日日曜日

彼の話。

右下が長男くんの自画像。澄んだ目がいい。

長男くんがグループ展「A Study in Monochrome.」に参加すると聞いて、日時や場所を調べたら東銀座から電車で1本、20分先の所ではないか!と分かり、訪れる。

商店街に構えていたギャラリー「ギャラリーしろむじ」のオーナーに、長男くんの絵をどうやって見つけたのか?と尋ねると、長男くんが発信していたInstagramを、オーナーの師匠が見つけて推薦されたとのことで、オーナーもファンになる。情報発信の大切を痛感。


前回(別場所)のグループ展でも販売実績があったので、プロと言っていいのかな。
本人も画家として生計を立てたいという希望だから、トコトンやってみたら良いと思う。


グループ展の良い点は、テーマは同じでも作品はそれそれ異なり、新しい発見がある点。

作品からは気づかないけど、今回は70歳以上の作家さん作品もあり、20代の長男くんは貴重な若手作家とのこと。


親としてもアート愛好家としても安心&満足した帰り、今度は末っ子くんと妻と合流。

すると、末っ子くんが“あるアイデア”について熱心に語ってくれて、話してる本人も楽しそうな表情。


一般的にはマーケット調査、ペルソナ設定、マーケットイン思考、アウトプット手段などのマーケティング戦略がセオリーだけど、若者の発想には常識を飛び越える勢い(≒怖いもの知らず)があるので、「先ず、やってみなよ!プロトタイプを創って改善を繰り返せばいい。
大切なのは、そのスピード感!」と伝えて話を後押し。

ほんと、子供にやりたいコトがあるなら、やらせてみたら良いと思う。
そのために親は存在するのだから。
子に対して損得勘定なんてないのだから、子を応援せずに誰を応援するの?という感じ。

2025年1月4日土曜日

夜も朝も。


「僕、走るかもしれないので見てくださいね!」と熱心に語ってくれたのは、創価大学2回生の川上くん。

接点が全くなかったのに知ったのは妻の授業だった「こどもスペースラボ」を履修していたから。
でも強化メンバー?に選出されたから合宿などでなかなか出席できず、当日も参加できなかったけど最終日の終了間際にやってきて、片付けを最後まで手伝ってくれる。

箱根駅伝なんて、知り合いもいないし、各大学とも縁がないから興味がなかったけど、6区(復路の最初/山下り)を激走する姿を応援してしまうのだから、人って分からない(笑)。

品素な食生活者だから正月の豪華な料理に胃がビックリ。食べ過ぎで消化目的で夜散歩。
妻に付き合ってもらい、川上くんの話や検討中のアイデアなどをブレストしながらの4,000歩。

道を定めず細道&横道などをウロウロしていたら、いい雰囲気の神社を見つけてロケハンも兼ねる。ラッキー!

寝ても消化が収まらず、翌朝も朝食前に散歩。今度は土手沿いを歩きながら、昨晩の続きや、たわいもない話をしながら一日の過ごし方をブレスト。
こういう話ができるのは妻しかいないからな・・・。

すると、土手では朝から連凧をあげている人が二人いて、そこへ鳥(たぶん白鷺)の群れが横切り、奥からは坊っちゃん球場越しに朝陽があがってくる様子がセットになったので、サッ!と撮影したのが写真。

こうして記しておかないと、忘れてしまう出来事が日常。



2025年1月2日木曜日

運を追い越す。


“なんとなく全てに行き詰まりの感を覚える運気です。精いっぱい努力しているのに、その努力が報われない。
成果が手に入らない状況でしょう。
長い人生にはこういう時期もあります。焦らず、苛立ちせず、ここは一つの試練の時と心得て頑張りましょう。
春は近い。明るい見通しがほどなく開けます。”

と、記されたおみくじ。
一般的におみくじは、その年の運気を占う内容だけど、読み手は(
今年=2025年のことでなく去年=2024年のことを言い当てられた!)と、ドキッ!とする。

漠然とした閉塞感、将来を描くものの、そこまでの道のりが描けない。一歩踏み出すも成果は出ず、空回りしても過ぎていく日々・・・。

でも、腐ることなく、諦めず、粘り強く自分を鼓舞し続けたことで得られた結果は大きく、「おみくじの内容を追い越しちゃったんじゃない?」は友達談。

おみくじって未来予想ではなく、今の自身と照らし合わせて心持ちを肯定するアイテムだから現在の心境にストンッ!と落ちたみたい。

大切なのは「チャンスはいつでもウェルカム」な心持ちでいること。
待っていれば向こうからチャンスがやってくるわけではないので、自ら創る、呼び込む必要がある。計画的偶発性理論。

「チャンスの神様に前髪はない。」は好きな例えで、チャンスの神であるイカロスの髪型は前髪のみで後ろ髪がない。かつ、イカロス(チャンス)は高速移動なので前から来るイカロスの髪を掴むしかない。捉まえる心づもりをしておかないと、と言う逸話。

おみくじを
エイッ!と掴んだら、実は運を追い越してた・・・。ってスゴい話。メモメモ。

継承者。

絶妙な硬さと甘さ、酸味が美味しい義姉の味。

どこの家庭でも必ずある「独特(個性豊か)な食または風習=その家庭&家族でしか分からない」。毎年恒例とも言える話題。

最初は「お雑煮」。
愛媛(義母義兄家)では、鰹だしに鰹節、焼かない丸餅、大根、人参が入るタイプ。お雑煮の出汁は餅などが溶けてで白濁っぽい。

私の実家は東京なので透明な澄まし汁。鶏肉、ほうれん草、人参、ごぼう、餅は焼いた四角い餅が入ってた。
どちらがどうこうではなく、両方とも美味しく得してる感じ。

だけど、餅の食べ方は妻だけ独特で、お雑煮から柔らかい餅を取り出し、用意していた納豆と一緒に食べる。義兄も義母も“そのような”食べ方をしない。
実は義父の食べ方が“そう”であって、妻が継承者のよう。

お節を食べた後はデザートタイム。ちなみにお節は数年前から自家製ではなく、注文してる。
義母義兄家では義姉がつくる「手づくりフルーツ寒天」が必ず出る。元旦に出たのはキウイフルーツ寒天で、これが甘さ控えめの超美味でお気に入り。

そもそも寒天なんて、愛媛に来るまで食べた記憶がなかったから、その美味しさに驚いたのを覚えてる。食感がゼリーと違うんだよね。
姪っ子たちは生まれた時からフルーツ寒天を食べてるから、きっとこの味も母の味で継承者になるのかな?

そして、お節ってそもそも正月三が日に台所に立たなくてもいいように量も種類も多く作り置きするのが狙いと聞いたものの、美味しいから三が日持たないね・・・となる。
そんな時は「カレー」になるのも、その家の風習か。

2024年12月25日水曜日

Happy Holiday!


So happy to meet you and hope we can spend more time together in the future!

“会えてとてもうれしかったよ。これからも一緒に時間を過ごせることを願っています。”

と言う、メッセージが添えられたハッピーホリデーカードが届く。
メールでサクッ!と秒で送れる時代に、あえて手間とお金がかかる郵便で海を渡り、家族の近況とホリデーの祝いを共有するってアメリカ文化のいい所。

送り主はアメリカの兄弟ハル(医者を育てる医者というスーパードクター)。
SNSではお互いの動向は把握していたものの今年、34年ぶりの再会を果たす。
ハルの父(=アメリカの父)とも会えて親孝行できたのも今年。

これまでも会おうと思えば会えたかもしれないけど、お互いに自分や家族の事で精一杯だったし、気づいたら18歳で出会ってから34年も経っていた・・・と言う感じ。

34年も経てば職を得るし、キャリアップに転職もするし、ご縁あり結婚もするし、子供も授かるし、その子供は成人して自立するし、自分は老いを実感するし、身近な人の死も経験する。

34年前は今を全く想像できなかったから、このご縁の続きはハルの子供達、我が子達が交流してくれるといいな。

ハッピーホリデーカードが届かなかったら、
クリスマスムードの雰囲気も感じずに、フツーに掃除、洗濯、買い物に行って、明日からのココ大付属学園の準備に過ごしていたと思うけど、誰かが自分のことを想ってくれたことに大感謝。


どなた様もHappy Holiday!

2024年12月22日日曜日

子育てについて。


遅ればせながら妻の誕生日、そして長女、長男の新たな門出を祝って乾杯。
それぞれに暮らしている二人は、それぞれが自分が描きたい世界へ踏み込み、私たち夫婦の知らない世界へ進む子ども達を誇りに思ったり。

一緒に暮らしていたから、考え方や物事の見方、好きなモノやコトなど、多少の影響は受けているとはいえ、働き方(生き方)は決して同じ/一つとは限らないという話。
選択肢は無限にあり、選択できる意思を育めるかどうか?も子育ての範疇かもしれない。

振り返れば私も同じで、百貨店勤務の父の影響で百貨店勤務に憧れたか?と言うと全くなく、単に“好き”だった映画の道へ進もうと思うも、よくよく考えてみると美術畑だった父、美大卒の母から自分が気づいていない影響を受けていたのかも?と思ったり。

次男とは別機会に食事。
彼もユニークで、姉、兄の固定概念的な考えに縛られない進学を見ていたから(そんな道もありなんだ。)と思っていたかも。

一年半ぶりの再会でも“昨日の続き”みたいのが家族。
いろいろ話を聞いていると、次男は音楽や言語、哲学が好きは変わっていなく、読書をしては自分の中で考えをまとめていて頼もしい。

すると親は勝手に(末は妻と同じ研究者かな?)と思うも、そんな単純な話ではなく、この先、新しい職ができたり、もしくは新たに拓いたりするかもしれないと思うと、親は応援団として見守るのが一番と理解する。

やはり両親が私にそうしてくれたことって、我が子にも同じになる傾向あると思った件。

2024年12月1日日曜日

家族の話。


私の貧弱な食生活を心配して義兄夫婦と義母が夕食に誘ってくれる。
一人だと食生活に無頓着になり偏食になりがちで、感謝と申し訳なさと・・・。

並んだ食事は「香港」の中華料理。
ローカル番組でも取り上げられたこともYoutuberが取材したこともある、松山では有名な街中華。
名物料理(チャーハン、豚天、海老天、酢豚など。大学芋はなくなったとのこと)がズラリと並ぶ&私の好物の義母特製の春雨サラダも並び、(今日は何か特別な日だったかな?)と思ったら、姪っ子の進学が決まった祝賀会でした。

そんな姪っ子は姉妹。キャーキャー言い合うお年頃でとてもにぎやか。

そんな光景を懐かしく思ったのは、私も妻も現在は“無音”な生活をしているから。
我が家の昔を思い出すと5人で暮らしていた時は、誰かしら何かしらコトが発生して常に臨戦体制だったけど、それが普通で楽しんだ思い出。

そこから16歳で長女は旅立ち、17歳で長男は旅立ち、18歳で次男が旅立ち3年。
個別には会えても家族5人が揃う機会はないかもしれないと思うと、寂しく思ったり(涙)。

ホント、16年ほどしか子供たちと一緒に過ごせないと思うと、積極的に子育て関わった方が良いとアドバイスするのもわかるでしょ?と。

と言う振り返りを夜風に吹かれながら義兄宅から徒歩で45分かけて家路につく。

2024年11月16日土曜日

額装化推進!


我が子の描いた絵などは手元に残しておきたいから保管しているものの、飾らなくてはもったいない!と思ってから、作品は額装して飾っている我が家。

ココ大付属学園でも子ども達の落書きや写真などを飾っていて、ペラペラで飾るより、サマになるから保護者からも喜んでくれる。

「(描いても、作っても)捨てられちゃうんだよね」という子供の嘆きを何とかしたい気持ちもある。


でも、額装って手間だし、お金もかかるし、億劫になるけど、それまで単なるペラペラなモノが途端に作品化になるのはいい。

と言いつつも、額は高いのでもっぱら100円ショップで購入(100円ショップでも良いものが増えてる!)

長男くんが描いた油絵と習作を額装。でも作品は既成サイズではないので額装屋さんへ行く。
店員さんからアドバイスを聞き、台紙やフレームを選ぼうと材質や色、デザインなど数十種類からピン!ときたものに決める。
ちなみに最近の額装の表面はガラスではなく、高透明アクリルパネルが主流とのこと。

全て整えて代金を算出してもらうと2つの額装で計2万円超だった・・・。
一瞬、高額に思えたけど、これから先、何年も楽しませてもらうわけだし、仮に20年間楽しめたら1年1,000円、1ヶ月80円ほど。全然高くない!

来年度もフレームづくりを申請しようかな、今年は円型と正方形型のフレームを作った。
額装化推進!

2024年11月6日水曜日

違う世界へ。

東京タワーが窓ガラスに偶然に映り込む。

「食事をしよう!」と誘われた場所は「東京アメリカンクラブ」。
それはどこ?となり、港区麻布台で、用事がない限り、訪れる理由がないエリア。

東京アメリカンクラブは、1928年に創設された会員制の社交場。96年の歴史。
プールやボウリング場などがあり、アメリカ企業の関係者が滞在する際の宿泊や交流拠点として活用しているとのこと。

だから、一歩踏み入れると日本なのに雰囲気はアメリカンな落ち着き、おもてなしや調度品はエレガントで、会話は基本的に英語。

こんな機会は滅多にないと、前菜にサラダ、メインはサーロインステーキをミディアムレアで注文。
当然「白米」はない(笑)、その代わり、美味しいパン&バジル入りバターが添えられる。

今回のお誘いは、アメリカの父から「アメリカへ帰国する前に会いたい。」と連絡があり、妻、長女も一緒にゆっくりと語らう。

アメリカの父も自らを切り開く意思を尊重する人で、よくぞ素性が分からない東京から来た18歳(私)を受け入れてくださったと自分の運に強さを実感したり。
ほんと、あれがスタートで今だから。

美味しいサーロインステーキなんてこれまで数回しかなく、今回も加わる。
やっと落ち着いて辺りを見渡すと、(あぁ、ココはよく映画やドラマで使われるセットのようだ・・・)となる。
そして、実際に東京ロケーションボックスで紹介されてた。

ロケで訪れることはあるかもしれないけど、利用者としては訪れることができない場所。
アメリカの父に感謝、そして今を見せることができて親孝行。

2024年10月14日月曜日

親孝行。

きな粉がかかった栗味のティラミス

アメリカの父、そして兄弟夫婦との会食も終盤。
「じゃあ、デザートをお願いします。」とコース料理の最後をお願いすると、しばらくして「お待たせしました。」と、店員さんが声をかけてくれて、テーブルに出してくれたのが、このデザートプレート。

???となり、何かの間違いかと思ったら、私の誕生日の前祝いだった!
思いがけないサプライズを用意してくれたのは妻と娘で大感謝。良い時間を過ごすことができました。

思い返せば、34年前。希望大学を不合格になった高校を卒業したばかりの若者を受け入れてくれたのは、バージニア州でタイムワーナー社に勤めていたおじ様と画廊を経営していたおば様(共に日本人)の家庭で、一人息子とは一つ違い。

全ての始まりは、この一家との暮らしから。
兄弟はテニスはできて、バイオリンを弾いて、名門大学に入学。その後は結婚して家庭を持ち、医者になって、現在は医者に教える医者。そして性格はメチャ優しい。

目の前でスゴいキャリアパスを見ていて、私はと言うと、NYへ渡っても大学を中退、25歳から働き始めて数奇なご縁で今に至る。

アメリカの父へ「覚えていますか?2001年にお会いした時に、フィルム・コミッションがしたいと伝えましたが、叶えることができました。」と伝えると、覚えていてくださり、「誇りに思う」と喜んでくれる。

アメリカの母は既に亡くなってしまった。ほんと、親孝行ができる回数って多くない。
できる時にしておかないと!アメリカに帰る前に、また会わないと!

2024年9月29日日曜日

28年。


聞けば美味しいと評判のケーキ屋へ電車を乗り継ぎ、隣町まで行ったという長女。
長男と一緒に結婚28周年を祝ってくれる。

毎年、自分たちは忘れがちで、過ぎ去ってから思い出すことも多い結婚記念日。
子ども達に大感謝。

ちなみにこのケーキ、評判通りの美味しさで特に底のビスケット状の器がサクサクのザクザクでとても美味しかった。

ケーキを食べながら28年間の振り返り。
私たち夫婦がNYの日本食レストラン「しゃぶ辰」で偶然に出会ったのが30年前。

妻(当時は学生)と私(大学を退学し日本へ帰るにも帰れなかった人)は、店長や料理長ら周りに恵まれて過ごし、公認の仲に。

その後、NYから帰国し結婚するのだけど私24歳、妻26歳に「若すぎ!」と我が子達。
現在、長女は26歳、長男は24歳。その年頃で結婚しているのだから彼らが驚くのも分かる。

でも当時の当人たちにはそんなコトなど分からないまま、職も金もないまま結婚(笑)。
ホント、何にもなかった。私が職(それもアルバイト)を得たのは25歳から。
その後、愛媛製版センター→ネットイヤー→愛媛県庁→松山市役所→ココ大+ジャパンFCがキャリアパス。

だけど結果的に次男(20歳)も含めて、色々と大人の会話ができてるって嬉しいし頼もしい。
「気づいたら・・・って感じだよね。」は共通で、結婚30年は「真珠婚」とのこと。
25年の銀婚式について日記に書いていないということは気づかなかったのか・・・。

2024年9月28日土曜日

親の影響。


「子ども達が宇宙に興味関心を持つアイデアとして、レゴとは別の“+@”を考えよう!」と、学生達に投げかけ、議論を見守っていると「スターウォーズって最高じゃないですか!すっごい好きなんですよ。」という声が聞こえて(???)となり、そのグループへ近づいてしまった。

「スターウォーズが好きなの?」「はい、大好きです!と、言うか父が大ファンで、私もその影響で・・・。」と女学生。

これ以上話すとハマり、議論から脱線するので「いいね!」で終わったけど、スターウォーズは宇宙を舞台にした物語だから、子ども達が宇宙に興味関心を持つこと間違いないだけど、実は昨年実施したので今年はナシ、とても好評で盛り上がったんだけどね・・・残念!

「親の影響って大きいよね。」と妻。
その通りで、私のスターウォーズ好きは、子ども達にも好きがうってるし、アート好き、AKIRA好き、テクノ好きなども浴びてるよう。妖怪好きは誰にも影響しなかったよう(笑)

趣味だけでなく、生き方も影響しているようで、子供達から見たら(何をしているか分かるようで分からない不思議な親だなぁ)と思っていたと思う。
前例のないキャリアパスだからね。

だからか(歩む道は自分で決めていいんだ!)となったのかも。
その分、凸凹ある道のりだけどアドベチャーファミリー(≒人生は旅と同じで冒険、挑戦で溢れる)を標榜してるから、当然と思ってるかも。

じゃあ、そんな我々は・・・と言うと、既成概念にとらわれない柔軟な考えを持つ親元で育ったということになる。

2024年8月12日月曜日

滞在は5時間。


広島滞在は5時間。広島港から宮島港まで30分、宮島滞在が90分、宮島港から平和公園まで40分、これに待ち時間などが加算されて残りの滞在時間は2時間ほど。

平和公園に到着すると原爆ドームには大勢の外国人が訪れていて、広島へ原爆が投下された日が近かったからか、数種類の言語で紹介された資料を皆さんが手に取ってた。
そして、その隣にある学徒動員で犠牲になった若者たちの慰霊碑にも大勢が訪れてた。

写真の原爆ドームの上空で原子爆弾が炸裂したと思うと、今も各地で戦争している人たちに「ココに来い!」と言いたかったのは事実。

残り2時間、「次は何しようか?」となり、長男くんから「近くに画材屋がある」と分かり、訪れよう!となる。
現在、長男くんは油彩画で風景描きを好んでいて、その専用画材が必要とのこと。

画材が所狭しと並ぶ店内の3階にお目当ての画材(油彩画には欠かせない発揮性のあるオイル等)があったようで喜ぶ長男くん。ミッション終了!
個人的に文具&画材屋特有の“あの香り”が好き。

残り1時間、「休憩しよう。」と抹茶専門店でスイーツを食べて30分経過、残り30分。
お土産を探しに行こうと百貨店に入り、色々と物色して「生もみじ饅頭」をゲットしてタイムアップ!
「今回も十分楽しめたね!」となり、路面電車に乗って広島港へGO。

街ブラだけでも十分楽しめる日帰り旅の第二弾終了!