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2025年11月23日日曜日

休日の話題。


現在、販売中のdiadiaが作った「音楽付き日めくりカレンダー」
商品のキャッチコピーが確立されたら、いいな。

ココ大なら「誰でも先生、誰でも生徒、どこでもキャンパス」。ココ大付属学園なら「想像×創造の居場所」 みたいな感じ。

実は彼らと同じ年頃(1993年頃/22歳頃)に、ニューヨークでフリーペーパーを作ってた。

『フリーペーパー』という名のフリーペーパーで、日本食レストランや友人に配ってた。
ただ、当時はフリーペーパーというモノをキチンと理解しておらず、広告もナシでかかった経費は全て自己負担。

インタビューしたり、原稿(と、言っても好きなコトを書いたり、パティシエの友人にNY菓子のレシピを書いてもらったり、人生相談に乗ったりなど)書いたり、デザインしたり、校正したり、DTP周りも全て一人で行い、親から預かった授業料も当時は珍しかった白黒レーザープリンターなどに使ってしまった。

大学は既に辞めていたから時間がたっぷりあったおかげでIllstratorもPhotohopもQuarkExpressも全て使いこなせていて、一人出版社だった思い出。

その後『フリーペーパー』を読みたいとロンドン、パリから連絡があり、送付したほど。
2年ほど続けたけど、日本へ帰国する際に廃刊してしまった。

あの経験が今の“どこ”に役立っているか?は分からないけど、行動すれば必ず問題は起きて自分が対処しなければならないことは学んだ。

行動量の多さのおかげで「不測の事態は起こるが前提。」「予定は未定。」「事業は不成功の方が多い。」などから、臨機応変/柔軟性を手に入れたかもしれない。

我が子が「音楽付き日めくりカレンダー」をゼロからつくり販売までこぎつけた行動量は、とても高く/多く、この先も柔軟な発想から面白いコトをしてくれるんだろうな・・・と楽しみでしかなく、父も長年温めている物語の執筆を始めるか!?と思ったり。

2025年11月22日土曜日

誰もが通る“初めて”。

https://dia-a-dia.com/

初めての自己紹介、初めての手紙、初めての企画書、初めてのプレゼン、初めてのアルバイト、初めての仕事、初めてのデザイン、初めての打ち合わせ、初めての提案、初めての受託、初めての喜び&悲しみ、初めての退職届け、初めての起業、初めての仲間集め、初めての商品開発、初めての助成金、初めての販売、初めての依頼、初めての就任、初めての法務局/税務署・・・と、生きていれば“初めて”との関係は、否応ナシに避けられない。

ましてや、ゼロイチ、起業/創業の場合は、初めてだらけが倍増する。
54歳でも初めてが多いのだから、この先も初めてのコトは多いだろうと推察。

すると例えば、本を出版しようと思い立ったまではいいが、完璧を目指して、一年後にやっと取り掛かったとAさん。

Bさんは一先ず、1ヶ月かけて書いた1冊目を公開するも酷評されて凹む。でもブラッシュアップした2冊目を2ヶ月後に出し、また酷評されるも1冊目に比べると出来はよく、更にブラッシュアップした3冊目を3ヶ月後、4冊目を4ヶ月に世に出して評価を得続ける。

一年間、何も行動しなかったAさんに比べて、Bさんは10ヶ月ほどで計4冊を書いた。
Aさんの完璧と思う気持ちは「思い込み」なので、世間からは評価されず。
Bさんはトライ&エラーを繰り返して、世間に認められていった。

『Done is better than perfect.(完璧を目指すより、先ず終わらせる。)』の例え。

diadiaの「音楽と共に楽しむ日めくりカレンダー(3,500円/個)」は、これまで世になかったモノ。

イメージだけは膨らむアイデアの中で、「できるコト、したいコト、しなくてはならないコト」など現実との乖離も発生して、ジレンマもあったと思うけど、熱量と仲間の協力を紡いで、一つの形になったのは本当にスゴいこと。

できない理由(=言い訳)を並べるのは簡単。
「やってみないと分からない」は本当で、この経験が彼らの今後に良い効果をもたらすのは間違いなく、夢に相乗り!

2025年11月10日月曜日

二拠点生活どうですか?


「二拠点生活、どうですか?」と、よく尋ねられる。愛媛県内も移住促進に積極的。
我が家の場合は、2021年に妻が愛媛大学以外に創価大学(八王子市)でも教壇に立つことになり、私はと言うとフィルム・コミッションもあるし、ココ大もあるので愛媛を離れられず・・・と言う結果の二拠点生活。

実は松山市には妻の実家、八王子市には私の実家があり、お互いの両親に近いので安心と言う面も。

そして、子ども達も手がかからない年頃だったのも二拠点生活がスムースにできた理由かも。
アドベンチャーファミリーを標榜する我が家なので、皆んな逞しく育ってくれた。

押し並べて平均すれば毎月、どちらかがどちらに行っていて、「再会は2年ぶりです!」とかはない。航空会社にかなり寄与してると思う(笑)

現在の二拠点生活は、お互いに単身生活(子ども達は既に一人暮らし)なので、自分のペースで仕事も休暇も過ごせるのは大きな利点。
良くも悪くもお互いに、ずっと仕事ができる質なので、周りからの干渉もなく納得するまで仕事ができる。そして、休暇も計画できる。

二拠点生活で最も聞かれる(質問される)のはお金の話。
それぞれ自立しているから、家賃や光熱費、食費などの生活費は別々にやりくり。

お互いに不安定さはあるけど、結婚した当時は二人でも一人分の平均給料額に届かなかったのだから、あの頃と比べると随分と成長した。

それぞれに生活費が発生(=2倍)してるから、一緒になれば出費は減るかもしれないけど、お互いに“やるべきコト”に邁進してるから「今ではないね。」と話し合い済み。

離れているからといって、家族間のコミュニケーションまで離れているか?はNOで、お互いに子ども達ともオンラインで繋がっているから全く問題ナシ。

家庭や家族に正解も不正解もないから、それぞれで良いと思うけど、余裕があっての二拠点生活ではなく、それぞれが自分の得意専門分で活躍できる場所が、偶然にも互いの故郷だったことから心配もなく成立しているのかも。と、質問に答えて反芻。

2025年11月3日月曜日

ちょっと、いい話。


80歳超のお婆ちゃん、スイミングプールにて。
「どうして、急にターンの練習を始めたの?」と尋ねると「三途の川ってあるでしょ?あそこから戻れるようにターン練習しているの。」

小学校一年生が遊んでいたら転んでケガをした。
先生が絆創膏を貼って、ケガもしていることから「今日は、まっすぐお家に帰る?」と尋ねると「違うよ、ちょっと曲がるよ。」と泣きながら答えた。

「核兵器ミサイルを無効にする方法があるんです!」「それは何ですか?」「ミサイルUターンシステムです。」「なんですかそれ?」「ミサイルが発射されたら、発射された場所へ戻してしまうシステム(通称:DND/ドクター中松ディフェンス)です。そんなシステムを開発できる人がいるんです。」「誰ですか?」「ドクター中松氏です。2003年の東京都知事選挙の時の公約です。」

極めつけは、当事者本人から。
落ち込んでいた彼女(当人)は気分転換に海岸を訪れる。目の前にカニがいて気分がムシャクシャしていた彼女は「ワッ!」と、カニを驚かした。

すると、カニは反射的に両腕(ハサミ)をパッ!とあげた。
(カニは威嚇のつもりと思うが)彼女には「ピース」に見えて、ハッ!させられ、それまでムシャクシャしていたのがバカバカしくなったようで気が鎮まる。

その出来事以降、彼女はカニを自分のラッキー生物にしているという話。(実はその後、(別の)カニを飼ったという“続き”もある。)

「すごくいい話だね!」「実は、このエピソード、テレビでも紹介されたんです。」「えっ!そうなの?」「はい、“月曜から夜ふかし”(と言ってた記憶)で街頭インタビュー受けました。」

「ちょっと待って!すると、二人ともテレビの街頭インタビュー(“笑ってコラえて”と“月曜から夜ふかし”)されたってこと?」で大笑い。オモロイ二人。

2025年10月31日金曜日

何度も拍手!


我が家の末っ子くんと言えば、これまで「あんな」「こんな」「どんな」「そんな」で、何度も学長日記に登場した人物。

小学校から中学校、高校・・・と思いきや「N高校に行きたい。」と、地元・松山の高校ではなく、当時開校したばかりのN高校へ進学して、いきなり一人でシェアハウス暮らし。

高校卒業後は大学へ進学せず、オーストラリアへ旅立ち、その勢いでイギリスでも暮らす。
先に海外へ行った姉、兄を見て育ち、「なんだか、うちの家族って変わってるな〜って思ってたよ。」と、幼心の当時の心境を教えてくれる(笑)。

そんなユニークな彼も21歳になりました。
「日めくりカレンダーを作ろうと思ってる。」と、教えてもらったのは一年ほど前。
聞けば、日めくりカレンダーだから、日々の一枚一枚に、QRコードが印刷されていて、そのQRコードを読み込むと、予め埋め込まれている音楽が聞ける・・・というアイデア。

毎日、一枚に一曲の楽曲って、どんな曲なのか?
それは音楽好きな彼がキュレーター(専門知識を活かして音楽文化の橋渡しをする人)となって、世界各地の音楽から選んでリコメンド(推薦、提示)するとのこと。

聞いたことがないアイデアに先ず拍手!
末っ子くんらしい発想にもう一度拍手!
ゼロイチへ挑戦に誇らしさを感じて拍手!
さらに、仲間を募り(デザイナーはスペイン人のミゲルくん)、4人でプロジェクトとして始めた!ということに何度も拍手!

アイデアを思いつくだけでも素晴らしいけど、アイデアに留まらず踏み込んで、実際に作ろうと、デザインの検討や調べごと、印刷会社へ相談に行ったりしていると聞いて、見守っていたけど、ついにサンプルができた。との連絡。

デザイン性に振り切っていて、ユニークで好奇心がそそられる感じがしたが第一印象。
言葉だけで理解していたイメージが、目の前に現実になっているって、無条件にスゴい!

「これで終わりじゃないよ。スタートだと思ってる。」は更なる期待と可能性を感じさせてくれて、父は涙が出そうだった件。

2025年9月21日日曜日

色々と待ったナシ。

2,400円のランチセット。

映画館の窓口で「大人一枚、子供一枚。」と告げたのは、お婆ちゃん。子供と言ったのは初老の男性だった・・・。というエピソード(色々な枝話がある。)をなぜか思い出した件。
要するに親にとって子供は成人していようが歳をとったとしても子供は子供という話。

父と叔父たちの3人組は全員85歳以上。
話を聞けば相変わらず元気のようで、また一緒にお出かけを計画しているようで、息子から見れば元気なお爺ちゃん達だな・・・と。

「昼食でもどうですか?」と誘ったら、「ご馳走するよ!」と父。
中華料理店と言うので店前に着くと、「フカヒレスープなんてどうだ?」と、ビックリする値段を指差すから「いやいや、ランチセットで十分だよ。」と制止(笑)。
同じランチセット(写真)を注文、食後のデザート(杏仁豆腐)がついて2,400円/人。

悪口でもディスりでもないけど、近所の「梁山泊」「元帥」も十分に美味しいとわかる。
「香港」なら2,400円/人で食べきれない程の量だろうな・・・と思った小市民。

話を戻して。
近況などは電話でも伝えられるけど、こうして時間と場所を確保して直接伝えた方が喜ぶのが親というもの。そして、色々と考えさせられるお年頃になっている父と私。

普段は離れているので隣町で暮らしている姉夫婦にお世話になりっぱなしだけど、息子として50代を過ぎた人間として直視しないといけない、後回しにしてはいけないコトが近づいていて、正解も不正解もないから悩ましい。

話が煮詰まったので「コーヒーでも飲もうか?」となるも、スタバしかなく、85歳が「コーヒーを2つちょうだい。」と53歳の分も注文してくれる(笑)。

そして、お土産まで持たせてくれ、再会を約束して別れる。
色々と待ったナシが近づいてくる。

2025年9月18日木曜日

次回は92回目!?

抹茶アイスに29のローソク立てる。

一週間前は予想していなかった上京。でも、おかげで結婚記念日を祝うことができる。
1996年9月に結婚したから29周年。
余談は、100均ショップって品揃えが豊富で、数字のローソクも何種類も売ってた。驚き。

覚えているのは、1995年、ニューヨークで暮らしていた私と妻は、近所のカフェで(妻の大学卒業もあり)、今後について話しあっていて、「ニューヨークも卒業かな。」なんて、偉そうな事を言ってた世間知らずだったような・・・。

すると妻は、そのまま愛媛に戻らずイギリスへ更に留学することになる。
私は実家のある東京に帰らず、愛媛という地に興味津々で石手・東野辺りにアパートを借りる。
これまた思い出すのは、近所に暮らしていた酒屋の大家さんに何から何までお世話になったこと。

妻がイギリスから戻り、そのまま結婚。当時、私は24歳。
最近の男性の平均結婚年齢は31歳だから、かなり若くして結婚したんだな・・・と。

当時、仕事もしていなく「25歳まで働いていませんでした。」と、講演会などで話すのはこれが所以。

そして、義父の会社でアルバイト→愛媛製版センター(現:イープレス)→ネットイヤー→愛媛県→松山市→いよココロザシ大学と続き、現在に至る。

妻と29年という山谷を登ったり降りたり、曲がったり、滑ったりしながら過ごしてきて、色々ありましたね・・・と笑い合う。

長女が生まれ、長男が生まれ、次男が生まれ、あっという間に成長して、成人して、それぞれがそれぞれの道へ進み、彼らも親がこんな感じだから、オルタナティブな道を歩み始めて、これからが楽しみ。

抹茶アイスに立てた29のローソクの出番は1〜2分で終了。
消した後、「もったいないね」と妻。「次の出番は92回目!?」と一人で大笑いの妻(笑)

2025年9月7日日曜日

確信した日。

末っ子とは3時間ほど話す。

10年後も“なくならない仕事”は?と尋ねると・・・。

<コミュニケーション能力が不可欠な仕事>
一人一人とのコミュニケーションが求められる対人関係や共感が重要な業務は、AIによる代替が難しい。


創造性・発想力が求められる仕事
芸術家、デザイナー、作家などの創造的な仕事は、AIが代替しても限界がある為、10年後も需要が続く。

AIを活用する・作る仕事
AIを管理・開発するエンジニアや、AI搭載のシステムメンテナンス、AIデータを使った仕事は、10年後も不可欠。

臨機応変な対応や判断が求められる仕事
その場に応じて柔軟な対応が求められる仕事は、人間的な判断が重要。

とのことだけど、もう一つ挙げるなら「世界のどこでも通用する/マーケットがある仕事」はどうか?


と言うのも、我が子たちが拓こうとしている仕事/業種は、聞いたことがない(私が知らないだけかもしれないけど)業務だらけで、聞いていて楽しくて仕方なった件。


3人とも同級生とは違う道を選択した時(長女は高校から、長男は高2から、次男は高校から)は、周りと違ったので、(当時の)学校も声をかける程度しかできなかった記憶。

あれから10年ほど経ち・・・結局、選択した時からオリジナルな道を歩まざるをえなかった子ども達は、当時から自覚していたのか、それとも無意識だったのか分からないけど、コミュニケーションが必要、創造性が必要、臨機応変(現場力)さが必要、視野を広くするのが必要と理解していたのかも。

そもそも、フィルム・コミッショーになる!と決めた2001年。

我が両親も「なにそれ?食っていけるの?」だったっけ(笑)

(その業界を)知らなかっただけかもしれないけど、少なくとも世界にマーケットがある創造的な仕事は簡単には無くならないことをカフェで確認した日。

2025年7月26日土曜日

内子探索備忘録。

とても素敵だった外国人女性が描いていたペン画

たまたま立ち寄った本芳我邸で、ハゼの実から採取されて作られる蝋について、全く知らなかったコトを猛省して建物内をウロウロしていたら、縁側に座っている女性がいて、その佇まいがとてもよい雰囲気。

その脇を通り抜けた時に、ふっと見たら女性はペン画を走らせていて、とても素敵だったので、「その絵の写真を撮らせていただけませんか?」と尋ねると、キョトン?とした表情だったので、(おぉ!)と思い、英語に言い直して尋ねると「Sure!(もちろん!)」と返ってきたので撮らせてもらった写真。

旅先で絵を描ける人は素晴らしい!羨ましい。

内子に旅行者を連れてきたら道の駅「からり」は外せなく、母は愛媛でしか買えない品々を購入。
母の周りにはないだろうとカラフルな「ひな豆」を紹介すると「豆、大好きなのよ!」と一袋手に取る。

で、父には「干し芋」を愛媛では「ひがしやま」と言うんです。と伝えると「なんで?」と言われも実はよく分からず、説明書きを見たら「干菓子山=山で採れた干した菓子」とのことで(そう言うコトだったのね!)と理解するも、干し芋とひがしやまは違うモノとのこと(諸説あります)。

この日の夕食は「ウェルピア伊予」でBBQ。
IYO夢みらい館のマネジャーから「ウェルピア伊予のクラフトビール」の差し入れがあり乾杯!
炭火で焼いた肉や野菜が美味しかったコト。

30年経ても、こうして付き合っていただける父と母には感謝しかなく、2泊3日の松山/内子旅は終わったのだけど、早速、お礼が届き、母の「しゃぶ辰」時代の心配りの凄さ(母はしゃぶ辰のマネジャーだった)を思い出したり。

ウェルピア伊予のクラフトビール

2025年7月25日金曜日

行き当たりバッチリ!

和蝋燭は炎が大きい!ススが出ない。

「四国カルストという山へ涼みに行きましょうか?それとも内子町という景観保存地域へ行きましょうか?」と尋ねると「普段から山(自然の中)に住んでいるから、街がいいかな?」とNYの父と母。
と、言うことで内子町八日市護国の町並みへGO!

道後から内子町まで50分ほど、八日市護国の町並みに到着。町並み探索スタート!
父も母もNYに40年ほど暮らしていたから、「これはスゴいな!」と内子の街並みに感激。
「ここの塀は長いなぁ」と言った所は内子中学校。「学校なの!?」と驚く父。

そして、内子中学校の前にあった本芳賀邸。
古い佇まいに立ち止まり、説明書きを読むと「そうか、和蝋燭などで栄えたのか!」と興味ありそうだったので500円/人で入ってみる。

すると地元のガイドさんが丁寧に案内&紹介してくれて、私も大いに知る&学ぶことできて(へぇー)となる。

ハゼの実から巨万の富を築き、100年以上経っても後世に伝えられる功績に驚くも、ハゼの実は漆と同じで「肌がかぶれる、危ない植物(死に至ることも)」だったのに、皮を剥がして実を蒸して、ゴミを取り除き、圧搾して蝋の原液を取り出そうと思ったのか?

そんな危ないコトを承知の上、命懸けで最初に見つけたハイリスク&ハイリターンに賭けた芳我家はスゴいとなる。だから莫大な富を得られたと理解した。

奥にある資料館でも蝋について知り&学び、すっかり「和蝋燭」に浸ってしまったNYの父と母。

芳我邸を出た後も和蝋燭が印象に残り、他の店などは立ち寄らず、大森和蝋燭店へ一直線!

西日本で2店しか残っていない和蝋燭店(と記憶)となった大森和蝋燭店で歴史や商品などの説明を聞いた我々。

すっかり和蝋燭の魅力を感じて、「インテリアでも素敵ですよ」という紹介に燭台と和蝋燭を購入して、思いがけず想像しなかった「行き当たりバッチリ」な探索となった件。

2025年7月24日木曜日

親孝行。

ニューヨークの父と母

ニューヨークの父と母が松山にやってきてくれた!
前回は東京でお会いできたから半年ぶりの再会。

実父母、義父母、NYの父母、アメリカの父母と、父母が多い私たち夫婦。
義父とアメリカの母は他界してしまったけど(涙)。

70代になっても元気な父と母。
今回は前回お会いした時に「もうさ、この歳になると、やることがないんだよ!」と相変わらずのNYの父節(笑)。
そんな話の延長から「松山に来てください!」となり、トントン拍子に話が進み、2泊3日の愛媛/松山旅が実現する。

会えば思い出話、今の話、そしてこれからの話に花が咲く。
人生の先輩でもある父と母の話は本当に面白。

思い出話は「しゃぶ辰(NYの父と母が経営していた日本食レストラン、私たち夫婦が出会った場所)」に来た著名人の話、当時の裏話など30年経った話題でも「えっー!」と驚いたり。

ちなみにNYの父母はキース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキアを知っている(驚)。

今の話なら、愛媛/松山や世界各地、私たちの仕事内容などに興味をもって聞いてくださるし、これからの話であれば、いつも気にかけてくださっている我が子の話、楽しみにしてくださっている私たちの将来など、「(私たちの話は)老後の楽しみだな!」とNY父。

年月が経つほどに奇跡というかご縁としか言いようのないNY父母との出会いと今。
しゃぶ辰には私たち以外にも多くの(個性的な)日本人がアルバイト(当時はできた)がいたけど、こうして定期的に会っているのは私たちだけとのこと。
しゃぶ辰で知り合い結婚した・・・が大きいと思うけど。

「俺もこの先何年、元気か分からないからさ、また会おうよ!」と、今、会っているのに、もう次を期待するNY父。父のこういう所が好き(笑)

「私たちは恵まれているね。」と、妻としみじみ。

2025年7月13日日曜日

夫婦の未来。

コーヒー飲みながら未来会議

「私が働くのも長くて10年とすると・・・」と妻。「60歳まで残り7年か・・・」と私。
若い頃は60歳なんて、遥か遠い先の話で“おじいちゃん&おばあちゃんの域”と思っていたのに、自分たちにも迫ってきていて、今回の旅でも時折、話題にしたり。

と、言うのも海外に出ると、色々あるとは思うけどイキイキしているように見える&感じてしまうのは「隣の芝は青い症候群(≒一方的な羨ましい症候群)」か?

私たちは、これからどうしたいのか?どう生きたいのか?
心理学博士であり、ポジティブ心理学の可能性を研究している彼女にとって「ウェルビーイング(≒身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを指す概念)」は永遠のテーマのようで、
ウェルビーイングな日々はどうしたら過ごせるのか?

「自分との対話」が大切なのは基本。
そして(できる or できないは関係なく)未来を描くコトも大切なようで、カフェで話しても話し足りなく、帰りの飛行機で「できるコト(Can)、やるべきコト(Must)、したいコト(Will)」の輪っかを描いて思考を整理したり。そんなコトする夫婦はいないと思う(笑)。

「CanとMustの重複=仕事」「MustとWillの重複=夢」「WillとCanの重複=趣味」「三つの輪の重複=バランスがとれた生きがい」とするならば、それは何だろう?と。

これは不変ではなく、年齢や経験値によって変わる。
一先ず!私の場合は「フィルム・コミッション」と「ココ大」で、グラグラしながらもバランスが保たれていると思う。

でも、このバランスは自分一人だけの力ではなく、仕事相手や社会&経済状況、家族環境によって大きく左右される。
ほんと、一年先が不透明なまま毎年を繰り返して、振り返って安堵・・・という感じ。安定性が全くない。

妻も行く先を色々と考えていて、お互いに踏み込んだ話ができたのは海外という機会だったからかも。

こんな心情を「ミッドライフクライシス(中年の危機)」と言うのかもしれないけど、一つ明確にわかったのは「地域づくりも夫婦関係も積極的に関わらないといけない」ということ。

2025年4月27日日曜日

三人揃って255歳以上。


過ぎてしまったけど、父(85歳)の誕生日ケーキを妻と娘が用意してくれていた。
思い起こせばNY時代に「(病気に)危ないかもしれないから覚悟はしておいて!」と、当時の国際電話で知り、アタフタしたけど、あれから30年以上が経っても元気でいてくれて感謝。

元気過ぎて「最近はミステリーツアーに行ったんだ!」「ミステリーツアーって、行く先が分からない旅のこと?」「そう、バスツアーなんだ。」と、父の兄、父の妹の旦那(私から見ると叔父たち。全員85歳以上。)という三人揃って255歳以上の爺さん3人組で旅を楽しんでるから元気でなにより。

そんな姿を見ていると、私たちの30年後も80代に突入。
日本人の平均寿命は84歳(男性81歳、女性87歳)とのことで、90歳まで生きる確率は男性が25%(4人に1人)、女性は50%(2人に1人)と、長寿国日本!

個人的には、そこまで長生きするとは思えないけど、医療技術などの発展で「老人Z」のような世界もフィクションっぽく聞こえなくなってきた。

ただ、長生きするというのは、それだけ「お金」も必要なわけで、父の世代は年金などもしっかりしているけど、我々世代は安心して老後を過ごせない・・・など心配が尽きない世代。

どう考えても、今の一般的な80代と我々が達する80代では同じ80代でも質(生活様式など)が異なるのは目に見えていて、どうなっているのだろうか?

80代でも自分の生きがいなどの意欲で働いているのか?それとも働かなくてはならない状況に陥っているのか?
深く考えてもしょうがないから、今日を充実させようと思った件。

2025年4月7日月曜日

25歳。


長男くんが気分転換に松山へ。
義兄姉宅にお世話になっていて、食事に誘っていただいたら長男くんの誕生日まで祝ってくれた(涙)。

長男くんは25歳になった。
済美高校の2年生時に自主退学し、シアトルのカレッジで学び、その後はフィレンツェで絵の勉強をして卒業。昨年帰国して画家になる!と奮闘中。

私が25歳の時は、松山で働き始めた頃。
前年の24歳で結婚したばかりで、仕事も結婚生活もおぼつかなかった頃。

その後、1998年に長女が誕生し、2000年に長男くんが誕生。あっという間に25年が経っていた。その後、2004年には次男くんが誕生。

親がこんな感じだから、枠や既成にとらわれず、自分が進みたい道を歩んできた我が子達。
長男くんは小さい頃から絵を描くのが好きで、キース・ヘリングの絵を模写したり、スターウォーズのキャラを描いたり。

スポーツも好きで得意だったから、将来はどんな道に進むのかな?と思っていたら、スポーツではなくアートの道でした。

25歳だからと言って、すぐに将来を決める必要がないのは私自身の経験から。
その後、2000年にネットイヤーに転職したものの、フィルム・コミッションの存在を知り、2001年に愛媛県に移住して2002年に「えひめフィルム・コミッション」の設立に参画、愛媛県観光課に就職した時は30歳だった。

画家になりたいと言っても一筋縄ではいかないのは彼も承知で、紆余曲折しながらの道になるはず。
本人が楽しめるなら、親としてはそれ以上望むことはなく、なんなら楽しさに便乗させてもらおうかなと(笑)。
人生は楽しんだ者勝ち!

2025年3月19日水曜日

そんな彼の誕生日。

第1回早慶戦の両校選手(1903年11月21日)赤丸が泉谷祐勝さん

「この前さ、渋谷で
テレビ局の取材を受けたんだよね。そしたら相手がお父さんの連絡先を教えて欲しいって言うから伝えたよ。」
と、いう不思議な連絡をくれた末っ子くん。
「OK!」と私。

その後、「こんにちは。〇〇〇テレビの〇〇〇(番組名)、ディレクターの〇〇〇です。先日、息子さんにインタビューさせていただいたのですが、息子さんの高祖父である泉谷祐勝さんは日本の野球史上、初めてバントをした選手と聞きましたが・・・。」

「あっ、その話ですか?本(天皇の野球チーム)に書いてありますね。私もその本に書かれている程度のことしか分かりません。」
「はい、調べてみるとそうでした。では、本当だったんですね。」
「そうなんでしょうね。」
「ちなみに、第一回の早慶戦にも選手で出場されてますよね?慶應大学に挑戦状を出されたとか?」
泉谷祐勝さんなんですかね?そうなんですかね。」
「裕仁親王(後の昭和天皇)からの依頼で宮内省野球班を創設して監督兼選手だったとも書いてありました。」
「そのようですね。」

だんだん、私でも分からない質問になり「ゴメンなさい。私の父に聞いてみます。」と切る。

そして父に電話。
泉谷祐勝さんだけど、〇〇〇で〇〇〇だったの?」など、色々尋ねると初めて知ることも多く、へっーとなり、色々と情報をもらい、番組ディレクターに伝える。

そんなやりとりから、家族について知る機会を作ってくれた末っ子くんの誕生日は今日。
放送されるかは不明だけど、立場上、取材されるのは珍しいという話。

2025年2月2日日曜日

彼の話。

右下が長男くんの自画像。澄んだ目がいい。

長男くんがグループ展「A Study in Monochrome.」に参加すると聞いて、日時や場所を調べたら東銀座から電車で1本、20分先の所ではないか!と分かり、訪れる。

商店街に構えていたギャラリー「ギャラリーしろむじ」のオーナーに、長男くんの絵をどうやって見つけたのか?と尋ねると、長男くんが発信していたInstagramを、オーナーの師匠が見つけて推薦されたとのことで、オーナーもファンになる。情報発信の大切を痛感。


前回(別場所)のグループ展でも販売実績があったので、プロと言っていいのかな。
本人も画家として生計を立てたいという希望だから、トコトンやってみたら良いと思う。


グループ展の良い点は、テーマは同じでも作品はそれそれ異なり、新しい発見がある点。

作品からは気づかないけど、今回は70歳以上の作家さん作品もあり、20代の長男くんは貴重な若手作家とのこと。


親としてもアート愛好家としても安心&満足した帰り、今度は末っ子くんと妻と合流。

すると、末っ子くんが“あるアイデア”について熱心に語ってくれて、話してる本人も楽しそうな表情。


一般的にはマーケット調査、ペルソナ設定、マーケットイン思考、アウトプット手段などのマーケティング戦略がセオリーだけど、若者の発想には常識を飛び越える勢い(≒怖いもの知らず)があるので、「先ず、やってみなよ!プロトタイプを創って改善を繰り返せばいい。
大切なのは、そのスピード感!」と伝えて話を後押し。

ほんと、子供にやりたいコトがあるなら、やらせてみたら良いと思う。
そのために親は存在するのだから。
子に対して損得勘定なんてないのだから、子を応援せずに誰を応援するの?という感じ。

2025年1月4日土曜日

夜も朝も。


「僕、走るかもしれないので見てくださいね!」と熱心に語ってくれたのは、創価大学2回生の川上くん。

接点が全くなかったのに知ったのは妻の授業だった「こどもスペースラボ」を履修していたから。
でも強化メンバー?に選出されたから合宿などでなかなか出席できず、当日も参加できなかったけど最終日の終了間際にやってきて、片付けを最後まで手伝ってくれる。

箱根駅伝なんて、知り合いもいないし、各大学とも縁がないから興味がなかったけど、6区(復路の最初/山下り)を激走する姿を応援してしまうのだから、人って分からない(笑)。

品素な食生活者だから正月の豪華な料理に胃がビックリ。食べ過ぎで消化目的で夜散歩。
妻に付き合ってもらい、川上くんの話や検討中のアイデアなどをブレストしながらの4,000歩。

道を定めず細道&横道などをウロウロしていたら、いい雰囲気の神社を見つけてロケハンも兼ねる。ラッキー!

寝ても消化が収まらず、翌朝も朝食前に散歩。今度は土手沿いを歩きながら、昨晩の続きや、たわいもない話をしながら一日の過ごし方をブレスト。
こういう話ができるのは妻しかいないからな・・・。

すると、土手では朝から連凧をあげている人が二人いて、そこへ鳥(たぶん白鷺)の群れが横切り、奥からは坊っちゃん球場越しに朝陽があがってくる様子がセットになったので、サッ!と撮影したのが写真。

こうして記しておかないと、忘れてしまう出来事が日常。



2025年1月2日木曜日

運を追い越す。


“なんとなく全てに行き詰まりの感を覚える運気です。精いっぱい努力しているのに、その努力が報われない。
成果が手に入らない状況でしょう。
長い人生にはこういう時期もあります。焦らず、苛立ちせず、ここは一つの試練の時と心得て頑張りましょう。
春は近い。明るい見通しがほどなく開けます。”

と、記されたおみくじ。
一般的におみくじは、その年の運気を占う内容だけど、読み手は(
今年=2025年のことでなく去年=2024年のことを言い当てられた!)と、ドキッ!とする。

漠然とした閉塞感、将来を描くものの、そこまでの道のりが描けない。一歩踏み出すも成果は出ず、空回りしても過ぎていく日々・・・。

でも、腐ることなく、諦めず、粘り強く自分を鼓舞し続けたことで得られた結果は大きく、「おみくじの内容を追い越しちゃったんじゃない?」は友達談。

おみくじって未来予想ではなく、今の自身と照らし合わせて心持ちを肯定するアイテムだから現在の心境にストンッ!と落ちたみたい。

大切なのは「チャンスはいつでもウェルカム」な心持ちでいること。
待っていれば向こうからチャンスがやってくるわけではないので、自ら創る、呼び込む必要がある。計画的偶発性理論。

「チャンスの神様に前髪はない。」は好きな例えで、チャンスの神であるイカロスの髪型は前髪のみで後ろ髪がない。かつ、イカロス(チャンス)は高速移動なので前から来るイカロスの髪を掴むしかない。捉まえる心づもりをしておかないと、と言う逸話。

おみくじを
エイッ!と掴んだら、実は運を追い越してた・・・。ってスゴい話。メモメモ。

継承者。

絶妙な硬さと甘さ、酸味が美味しい義姉の味。

どこの家庭でも必ずある「独特(個性豊か)な食または風習=その家庭&家族でしか分からない」。毎年恒例とも言える話題。

最初は「お雑煮」。
愛媛(義母義兄家)では、鰹だしに鰹節、焼かない丸餅、大根、人参が入るタイプ。お雑煮の出汁は餅などが溶けてで白濁っぽい。

私の実家は東京なので透明な澄まし汁。鶏肉、ほうれん草、人参、ごぼう、餅は焼いた四角い餅が入ってた。
どちらがどうこうではなく、両方とも美味しく得してる感じ。

だけど、餅の食べ方は妻だけ独特で、お雑煮から柔らかい餅を取り出し、用意していた納豆と一緒に食べる。義兄も義母も“そのような”食べ方をしない。
実は義父の食べ方が“そう”であって、妻が継承者のよう。

お節を食べた後はデザートタイム。ちなみにお節は数年前から自家製ではなく、注文してる。
義母義兄家では義姉がつくる「手づくりフルーツ寒天」が必ず出る。元旦に出たのはキウイフルーツ寒天で、これが甘さ控えめの超美味でお気に入り。

そもそも寒天なんて、愛媛に来るまで食べた記憶がなかったから、その美味しさに驚いたのを覚えてる。食感がゼリーと違うんだよね。
姪っ子たちは生まれた時からフルーツ寒天を食べてるから、きっとこの味も母の味で継承者になるのかな?

そして、お節ってそもそも正月三が日に台所に立たなくてもいいように量も種類も多く作り置きするのが狙いと聞いたものの、美味しいから三が日持たないね・・・となる。
そんな時は「カレー」になるのも、その家の風習か。

2024年12月25日水曜日

Happy Holiday!


So happy to meet you and hope we can spend more time together in the future!

“会えてとてもうれしかったよ。これからも一緒に時間を過ごせることを願っています。”

と言う、メッセージが添えられたハッピーホリデーカードが届く。
メールでサクッ!と秒で送れる時代に、あえて手間とお金がかかる郵便で海を渡り、家族の近況とホリデーの祝いを共有するってアメリカ文化のいい所。

送り主はアメリカの兄弟ハル(医者を育てる医者というスーパードクター)。
SNSではお互いの動向は把握していたものの今年、34年ぶりの再会を果たす。
ハルの父(=アメリカの父)とも会えて親孝行できたのも今年。

これまでも会おうと思えば会えたかもしれないけど、お互いに自分や家族の事で精一杯だったし、気づいたら18歳で出会ってから34年も経っていた・・・と言う感じ。

34年も経てば職を得るし、キャリアップに転職もするし、ご縁あり結婚もするし、子供も授かるし、その子供は成人して自立するし、自分は老いを実感するし、身近な人の死も経験する。

34年前は今を全く想像できなかったから、このご縁の続きはハルの子供達、我が子達が交流してくれるといいな。

ハッピーホリデーカードが届かなかったら、
クリスマスムードの雰囲気も感じずに、フツーに掃除、洗濯、買い物に行って、明日からのココ大付属学園の準備に過ごしていたと思うけど、誰かが自分のことを想ってくれたことに大感謝。


どなた様もHappy Holiday!