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2024年12月29日日曜日

どこを見てるのか?


パッ!と見は“フツー(多数)”と違うから、そんなフツーのモノサシで測ると“違う人”と思い込まれてしまう。
大人はこれまでに会った人、もしくは情報で得た(つもりの)カテゴリーに分類してしまう。なぜなら、分類した方が“理解するのに都合がいい”から。

でも、それは“見た目(表面)”であって内面(≒本質)ではないから誤った判断、分類をされた人をこれまで多くみてきた。
今回、学生と接して改めて考えさせられたこと。

我が家の末っ子の場合は行動で先生たちからすれば“余計なコトをする学生”と見られた時があり、呼び出された際の多くで謝ったけど、明らかに違い、偏見と思った時は学校長などを相手に納得するまで説明を求めた過去。
学校側から面倒な親と思われても筋が通ってなければ親の出番でしょう。

そして、そんな学生がいる場面では大抵、学生に非があるのが大前提で話すから「ちょっと待ってください。話のスタート地点から既に違うんですけど・・・」と相手への面倒さ炸裂!

多くの場合、子どもに非がある。でも100%じゃない。
それを前回も前々回も前々々回もそうだったから、一律のモノサシで測った方が楽だからと、大人が思考を放棄(=一人一人に向き合わない)したら、子どもの可能性や希望、期待は一つ消えるのと同じ。
個性を大切に・・・なんて標語が泣く。

じゃあ、「喋らず大人しくしていればいい。」という振り切り論へは、喋らなくて大人しい子は、一見して“いい子”に見られるけど、本当にそうなのか?多くがそうだけど、あえて一石を投じたい。

大人にも社会にも期待しない世の中に生きるって悲しい。
妻いわく「社会はないけど(大人にとっての)世間体はあるよね。」と鋭い指摘。

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