当人だけに責任があるわけでなく、正解を求める「周り」も「分かりやすさ(客観性)」から深く考えず、機械的に「処理」している場合もあった。不正解は間違いという固定概念に縛られ思考停止になってしまい「不正解=アウト」のような雰囲気・印象に覆われると、一層と正解を探そうとするし、不正解は恥ずかしいと隠してしまう恐れもあり。でも、評価につながる正解・不正解とやらを出す「設問(問い)」が、時代に則してなかったらどうする?
辺りを見渡しても同じ人種にしか囲まれていなかったら変化には気づかず、「すごろく」の先に奈落の谷があっても直前まで気づかない・・・。極端な例はさておき、仕事と向かい合うと「正解は存在する」という固定概念に惑わされて探そうとするけど「正解は用意されていない」事実。じゃあ、正解は?というと自身が立てた仮説や検証に基づく「自分の意見」であり、その導き方は「問いを立てる」が有効的と伝える。
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